99.『息子のまなざし』(再) 恵比寿ガーデンシネマ

IMAO2005-11-15

新作『ある子供』の公開前にダルデンヌ兄弟
旧作三作品を上映している。
ポッと時間が開いたので、風邪を押して観に行く。
ビデオも持っているのだが、映画館で観るのは多分三回目。
シンプルでいて、力強い映画だ。
いつも不思議なのは、良い映画とは何か画面の力が違う。
この映画もそんな事を感じさせる一本。


邦題にある様にこの映画は「まなざし」=視線の映画であり、
サスペンスであり、贖罪の映画であり、親子の映画でもある。
それを非常にシンプルな筋書きと、シンプルなテクニックで表現している。
だが、何度か観ていると、そこには緻密な計算がある事が良く判る。


息子を殺された木工教師(?)のオリヴィエの所に、
当の息子を殺した犯人の青年が入学してくる。
その時主人公のオリヴィエはどう行動するのか?
というのが大雑把なストーリーだが、まずテーマが分りやすい・・・
自分の子供が殺されたり、死んだりする、というのはある種の地獄だ。
その地獄から立ち直ったかの様に思えた時、
当の犯人が自分の目の前に現れるのだ。


オリヴィエが犯人の青年が入学したのを知るのは、
多分映画の冒頭なのだが、その事を観客はなかなか知る事が出来ない。
オリヴィエの後についてまわる手持ちカメラは、
彼が何を見て、何を触り、何をしているのか?をつぶさに「観察」する。
だが言葉少ないオリヴィエからは、台詞として語られる情報は少ない。
だから我々観客もまた彼の仕草や行動をつぶさに観察する事になる。

ある人間が、ある状況の中で、如何に生きているのかを「観察」する事。
その「観察」という目的の為の手持ちカメラであり、
ドキュメンタリータッチなのだ。
ここでは手法が主題に見事に融合している。
何か面白い画を撮りたいためだけのテクニックではなく、
何か語りたい事を表現する為だけの為にテクニックが奉仕している。
当たり前の事の様だが、今はそうでない映画が多すぎる。
ダルデンヌ兄弟は確実に伝えたい事があって映画を撮っている。
それが本来の姿なのかもしれないが、なかなか難しい事だと思う。
今更ながらそういう事を考えさせられてしまう。