111.『ある子供』 恵比寿ガーデンシネマ

IMAO2005-12-12

若い2人のカップル。そしてその周辺の人々。
その仕草、その表情、その行動・・・
その全てが「生きている」。
このキャラクター達は映画の枠を越えて、
実生活者として「生きている」実感がある。
それだけでも並の作品ではないと思う。
真摯に映画に向き合っている者だけが撮れる映画だ。


だが、敢えて言わせてもらうのだが、この映画で描ききれない
深い物をどうしても感じてしまった。
ブリュノという若い男が、次第に「親」になってゆく過程が
この映画の主軸だ。だから仕方ないのかもしれないが、
カップルの女、ソニアというキャラクターの描き方が
中途半端な気がした。
ソニアはブリュノと似た者同士で、だからこそ彼等はカップルなのだ。
そして彼女自身も非常に子供ぽかったのに、子供を生んだ事で、
急激に「親」としての自覚が芽生えていく。
「母性」とはそんなに急激に宿るものなのだろうか?


パンフにあるダルデンヌ兄弟のインンタビューには次の様にある
「ブリュノと違い、
ソニアは子供を産むことで自然と母親になっていきます。」
しかし、現実には子供を育てきれない若い母親が増えている。
女は女だからといって最初から「母性」がある訳ではない、と思うのだ。
そうした事を含めての問題定義がなされるべきではないのだろうか?


そして「母性」の問題はそのまま「父性」の問題へと繋がってゆく。
ブリュノは子供を取り返し、仲間を救う事で成長してゆく。
それは分るのだが、彼等を救うのは自分達しかいないのだろうか?
その時、社会は、周りの大人達が何らしかの行動を
するべきなのではないだろうか?「母性」や「父性」というモノは
社会の中で育ってゆくものではないだろうか?
難しい問題だし、ここで語る事ではないかもしれない。
だが、現実社会は確かにそうではない、という事実は示されている。


ブリュノとソニアがこれから生きてゆく時、そこに「希望」はあるのか?
2人しかいない社会で彼等はどうやって道を切り開いてゆけるのか?
もう子供を売る事はしないかもしれないが、
結局は同じ事の繰り返しが起こるだけではないだろうか?
ラスト、2人が流した涙に僕は「希望」の意味を当てはめきれないでいた。
前作『息子のまなざし』では希望があるラストだっただけに
そう思ったのかもしれない。