(再)『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

IMAO2006-04-21

生と死は異質なモノだと、考えられがちだ。
「死んだらそれまでだ」
そんな風につい言ってしまうのは、
そうした考え方が根本にあるからだ。


この映画で描かれるアメリカとメキシコの国境は、
「生と死」のメタファーだと考えて良いだろう。
そしてその国境を主人公達はいとも簡単に越えてしまう。
主人公の男は、生命活動が停止し、肉体が朽ちて、異臭を放つ友
ルキアデスをメキシコまで運ぶ。その姿は時に滑稽でさえあるのだが、
彼の行動に迷いはなく、彼はその死体に友として話しかけさえもする。


そうしてたどり着いたメキシコの街で
彼等はメルキアデスの妻と呼ばれた女に会う事は出来ても
自分は妻ではない、と否定されてしまう。
そして目指す「ヒメネス」という街も存在していない。
だが、彼等はメルキアデスを手厚く埋葬する。
主人公とメルキアデスを殺した男は事ある毎に思い出すだろう。
砂漠の砂が如何に熱かったか?
ルキアデスの死臭がどれだけ鼻についたか?
蛇にさされた足の痛みも、やけどの様な喉の渇きも、その全てを彼等は
ルキアデスという精霊の様な男の事と共に思い出すだろう。
その時、メルキアデスという男は彼等の中に「生き返る」。
ルキアデスが「俺が死んだら『ヒメネス』に埋めてくれ」、と言った・・
それはきっと「俺の事を忘れないでくれ」というメッセージだった
のかもしれないな、と思ったりもした。