(再)『誰も知らない』 WOWOW

IMAO2006-10-03

WOWOWでハイビジョン放送。
初見の時の感想があったので、
そのままアップしてみます。
ちなみに日付は2004年9月2日 シネカノン有楽町

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映画が始まって、今までの是枝作品と何かが微妙に変わった、と思った。
音楽の使い方もあるだろうが、一番目立つのは
「説明的」なアップの画が多い事だ。
そこには確実な「コンテ割り」が存在していて、
今までの是枝なら「引き」一発で済ませてしまうシーンが、
細かく「説明」されているのだ。それはある意味、観客に優しい映画、
観客へのサービス精神に満ちた映画になった、とも言えるが、
明らかに「フィクション」としての完成度を求めた結果なのだ、と思う。


フィクションとドキュメンタリー、
この命題を是枝はずーっと追求してきた。
その試みが必ずしも成功でなかった事もあるのだが、
その真摯な態度にはいつも関心させられていた。
だからこの作品においても、いくら「フィクション」への
ベクトルが強くなったからと言って、彼の作品の中に
「ドキュメンタル」な部分がまったくなくなった訳ではない。
それどころか、彼の作品はフィクションとしての
「枠」(「基盤」と言い換えても良い)を得た事で、よりその
「ドキュメンタル」な部分が巧く強調された事になった。
監督自身がパンフレットに書いている様に、
主人公の少年の成長がそのままフィルムに刻まれているのは
正に映画でしか出来なかった「事件」であろうし、
母親役のYOUのアドリブの効いた演技を
映画の中に取り込んだのも映画的な技なのだ。
その全てが今回は彼の作品の中で一番巧く行っている。


忘れられないシーンがいくつかある。
妹の靴が、歩くたびに音が出る事。
弟がカップラーメンの残り汁にご飯を入れて食べている事。
モノレールを見ながら妹と歩く夜。
禁じられていた外出を兄妹揃って初めて行った時のはじけた様な空気。
その一つ一つは、どこかで観た事のあるシーンではあるのだが、
そのどれもが演者達の日常から切り取られた物を再利用する事で、
それが巧く映画の中で説得力を持つシーンとして構成されている。
重要なのはその行為その物は全て「本物」である、という事だ。
その時、演技は演技でなくなり、フィクションはフィクションの
限界を越える。だから少年が
「だって、そんな事をしたら4人で暮らせなくなっちゃうもん」
という言葉に重みが出てくるのだ。


と、ここまで書いてきて一つだけ、
この作品で納得出来ない部分がある。
それはやはりラストシーンだ。
死んだ妹を羽田に埋め、彼らの日常に戻ってゆく。
しかし、そこに監督自身は「それでも彼らは生きてゆく」
という希望を託したのだ、と言う。
しかし、そこに希望があるとはとても思えないし、
やはり中途半端な気がするのだ。
もしこの作品がケン・ローチならどうしていただろう?
愛すべき作品なだけに残念な部分でもある。
だが、この作品は間違いなく是枝版『大人は判ってくれない』なのだ。


個人的な事を言うと、この映画の舞台になった「東京」は
僕が感じている「東京」にかなり近い。
それは出身地が東京という是枝監督の心持ちと似通っているのかも
しれないが、羽田近辺のモノレールの風景は僕が自主映画で
撮った場所とほぼ同じ様な所なのだ。
京浜島の橋、モノレールの車内からの風景、高円寺の商店街・・
そのどれもが僕の原点の作品達と重なったのは不思議だ。