22.『SUPER 8』 吉祥寺東亜興行

IMAO2011-07-01

今時映画も写真もフィルムで撮られる事は少なくなってしまった。かく言う僕の仕事でもフィルムで撮られた作品はない。それが悔しくて趣味でやる写真は今でもフィルムで撮っている。
フィルムかデジタルか?という議論には市場的にはもう結論が出ている。若い人とたまに話をするとフィルムそのものの存在を知らないし、ましてや8ミリカメラの存在さえ知らない人がほとんどだ。まあ確かにデジタルは便利だし、僕も仕事上ではその恩恵を多いに受けている。画質的にもクオリティー的にもフィルムと同等かそれ以上の能力のあるデジタルだが、どうしてもフィルムでなくてはならない、という所があるとしたら、それは「何が映っているのかがその場では判らない」という事だと思う。それは欠点なのでは?とあなたは思うかもしれない。でもある一定の時間ー現像という時間を経たからこそ見える部分だってある。そう、映画も写真も「時間」を封じ込めるものだから、撮影した物がその場ですぐに見れてしまう事には未だに抵抗感がある。そういう部分こそが写真や映像の神秘性であり、魅力なのだと個人的には考えているからだ。(実際、写真家の古屋誠一の様に、撮った写真をしばらく現像しない人さえいる)ネガやポジがあれば失敗やアクシデントは必ず「形ある物」として残る。そしてその「失敗」の中にこそ本当の可能性があるのだ。
この映画の中でも現像に時間がかかり、失敗だと思っていたロールの中に大変な物が映っていた、というシーンがこの映画のキーとなっている。この点1つとっても元自主映画作家の心をくすぐるシーンがたくさんある。好きな女の子を出したいが為に映画を撮るのか?それとも映画が好きだから女の子に出演交渉をするのか?そういう細かい演出1つ1つが懐かしい気持ちにさせてくれるし、プロデューサーのスピルバーグの『未知との遭遇』や『E.T.』へのオマージュもたっぷり含まれている。
昔、8ミリカメラを小道具に使った映画のプロットを考えていた事があった。でももうずっと止まったままだが、ちょっと思い出してまた書いてみたくなったりもした。それよりも冷蔵庫の中に眠っているシングル8と16ミリのフィルムをまずはどうにかするべきかもしれないが。