28.『監督失格』 TOHOシネマズ 六本木ヒルズ

IMAO2011-09-06

「映画は《死神が仕事をしているところをとらえる》唯一の芸術だ。」そう言ったのはジャン・コクトーだそうだ。撮影者も、演者も歳をとっている最中で、いずれは死ぬ事になる。だからその時、死神が仕事をしている瞬間が撮影されている事になる・・このコクトーの言葉にこそ相応しい映画も他にないだろう。(以下、ネタバレあり)
林由美香の事は、その死が伝えられた時に相当話題になったし、彼女の代表作「由美香」も名前だけは知っていた。監督と女優が一緒に北海道への自転車旅をしながら撮られたこのAV作品は、ある意味伝説の作品だった。非常に下世話な言い方をすれば、こういう「監督と女優がデキて・・」みたいな作品を意味なく嫌う人は多い。でもぶっちゃけて言うとそんな作品は腐る程ある。トリュフォーがその全ての作品の女優と関係があったのは有名な話だし、その手の話なくして映画史は成り立たないんじゃないかとさえ思う。だから林由美香の死んだ直後が映像として記録されたという特異性以外に、この映画に何も目新しい部分はないと思う。
けれども同時にこの映画に普遍性があるのは、やはり映画(というか写真も含めた映像媒体)には、事実の背後に隠れた何かを記録する能力がある、という事だ。いや、正確に言うと多分それも間違いなのだろう。映画も写真も実はただのフィルムだったりデータだったり紙だったりする訳で、そこに何か「意味」を勝手に感じているのは人間だ。だからそこに「感情が映っている」とか言うのも本当は間違いだけれども、1つハッキリしているのは映画は科学ではないという事だ。映画を支えているのは科学技術だけれども、それを表現足らしめているのは「感情」だ、という事を僕達は経験上知っている。そこにある「想い」をどう捉えるのか?それはカメラを持った人間にしか出来ない芸当なのだ。そしてその「想い」が「思い出」になれば幸運だが、「亡霊」になった時はある種の地獄だ。この監督はその地獄と向き合うまで5年以上の月日が必要だった事が映画でも描かれている。そしてこの映画の中で一番印象に残ったのは、林由美香の母親の目だ。娘が死んだ後の母親は顔は笑っていても、その目が笑う事はない。その変化をカメラは冷徹に見つめている。そんな所を捉えてしまうのは、やっぱり映画が死神のメディアだからなのか?映画が本当に怖いと思うのはそんな時だ。